ゆらのふなびと

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物語を「楽しむ」と「意味を見つける」の関係⇒感受性が低い人にとってのクンフー論

 

この記事は、『猫箱ただひとつ』の管理人べるんさん(id:bern-kaste)のこちらの記事

 

1)クンフー論。それは手段を目的化し「楽しむ」を追求すること(13488文字) - 猫箱ただひとつ。

 

に対して、僕がコメントを投稿し、それに対してべるんさんが

 

2)私信、タウさんへ。物語の<核>とクンフー論など - 猫箱ただひとつ。

 

この記事でお返事下さったことへの、お返事です(わかりにくっ) 

 

長くなってしまったこと、内容がお返事への感謝に留まらないこと、自分の思考として残しておきたいこと(これは完全に利己的な理由ですが)から、ブログでのお返事という形を取りました。

 

 

お返事

 

まず、べるんさん、お返事いただきありがとうございます! 前書き含め、非常に参考になりました。以下、引用は『猫箱ただひとつ』より、1)、2)の番号は上の記事に対応する記号です。

 

私はここ一回ドツボにハマってしまったことがあるんですね。つまり「楽しむ為に物語を読む」のではなく、「意味を見つける為に物語を読む」という逆転現象?が起きちゃったんです。

――2)

 

”楽しむ”と”意味を見つける”の「逆転現象」という言葉はとてもしっくりきました。意味を見つけるのって、物語を楽しむための一つのスパイスにすぎないのですよね。あくまで一番楽しいのは「楽しむこと」であって(トートロジーですが笑)。その優先順位を倒置しちゃいけないと。

 

多分これって物語を感情で楽しむという視点が欠けてしまって、「頭で考える」というスタイルになってしまったからだと考えています。つまり論理で物語を突き詰めすぎると、それはもう物語というか「文字記号の羅列」「意味の羅列」でしか認識出来なくなっちゃうので、つまんないんです。

ーー2)

 

意味を求めすぎると物語が「記号の羅列」になるっていうのもめっちゃ「あーーー」ってなりました。僕は理論的な整合性とか、様々な出来事を統一的に説明する方法に対して割と幸福を覚える人間ですが、それって数学でもできるんですよ。個々のキャラクターやシーンを、あたかも数式のように因果づけるだけで。論理を優先するあまり感情を押し込めてしまったら、もはや物語というものにとっての固有の魅力を殺してしまっているんだなと痛感しました。感情を与えてくれるのが、物語ならではの魅力なのかなと。

 

例えば、ちょっと分かりにくい比喩をしますけど、物語がカレーだとするじゃないですか。すると意味を見つけるっていうのはあくまでスパイス、つまりカレーをおいしくするための脇役です。「意味を見つける>楽しむ」になることは、カレーを目の前にして、カレーに一切手を付けずスパイスばかりそのまま食べようとするようなものです。そしたら当然おいしくない(楽しさを見いだせない)ことだってあるし、そもそもお前おいしいカレーが目の前にあるんだからそっち食えよって話になります。(伝わるのかなこれ…?)

 

そしてこの物語を再び読み込んで→考えて→文字に書き写していくことを何回も繰り返していくと、ふとその物語の<核>が現れるときがあります。(抽象的な表現のまま話を進めていきます)

その時に、私は「核を見つけた」「血脈はここだ」という表現をします。

――2)

 

文字に書き写すと意味が見えてくるっていうのもわかります。ブログやEvernoteに引用を書き写したり、付箋に気づいたことを書いていると、ふと「反応」(新たな考えが沸き起こること)や「連鎖」(気づいたことを書いたらあっこれも、ってなること)が起こることがあります。

今日は趣向を変えて2周目に音読してみたら、普段よりちょっと感情の入りがよかったような気がします(常に変化を、ですね!)

 

僕は決して「核を見つけよう」と思いながら物語を楽しめるタイプではない(特に一回目を読む時は)というのは今までの経験から実感しているので、べるんさんのスタンツは非常に参考になりました。幸い、次の第5巻からはアニメでも見ていない回なので、早速実践していきたいなと思います。

 

 

感受性の低い人にとっての、物語の楽しみ方・クンフー

 

さて、ここからはべるんさんのメモと、クンフー論絡みで感じたことを書いていきます。クンフー自体に理解が浅い部分はあると思いますが、悪しからず。まず物語について書いて、そこからクンフー論に繋げます。

クンフー論界隈ではもうとっくになされてる議論だよ! なんてこともあるかもしれませんが、素朴な考えとして書いておくことには価値があるはず)

 

 

 

「意味探し>楽しむ」という倒錯は、「感受性の低い(高くない)人」に起こりやすいように思います。実際自分がそうでした。幼少期の経験も人間関係の経験も豊かじゃないですし、物語をずっと読んできたわけでもありません。

 

もちろん感受性の低い人でも、物語を楽しいと思うことはできます。ただ、その”楽しい”が「薄い」。言語化できない。すぐに消えてしまう。故に物語への接し方が消費的になる。すると「こんなんでいいのか」とモヤモヤが湧いてくる。

 

そこに「意味探し」という答え(?)*1を与えられると、面白そうだな、と感じる。で、自分もやってみようと思う訳です。もっと物語を楽しくしたい! という目的を抱えて。

 

でもその人はもともと感受性が薄いから、すぐに天秤がひっくり返るんです。意味を見つけるための読解になる。対してもとから感受性が強い人は、感情の力によってその場に縛り付けられて、目の前に集中できるんです(というか、無意識のうちにそうなる)。

 

つまり、感受性の低い人にとっては、「楽しい」に「集中する」ってこと自体が、そもそものハードルだと感じます。

 

 

 

それともう一つ、楽しんでいる人に「憧れてしまう」が故に苦しむ、なんて自体が発生します。

 

例えば、僕はべるんさんのブログを見て正直べるんさんに憧れました。うわ、自分はあんなに物語を浪費していたのに、この人はこんなに大事にしてる! 核摘み取ってる! すげえ!! って。僕も「あなたのように」物語を楽しみたい! と思ったわけです。

 

でも、「憧れる」って根本的に危ういんですよね。評価尺度が外部にあるから。自分が今までよりちょっと楽しみを向上させられたとしても、基準は憧れの対象ですから、いつまで経っても満足が得られない。自分は成長しているのに。

 

それで結局、自分の楽しさが上に来る前に「私にはやっぱり無理だ…」と諦めてしまう、なんてことがあるのかなーと。たぶん物語に対して感受性が高い人は、こんなこと考えないです。だって、物語に接しているだけで自分は楽しいんですから。

 

この点については↓の記事の後半でも書いたので、お暇があれば見ていただくといいかもしれません(まとまりのない文章で恐縮ですが…)

 

誰かの「大好き」なものを、自分も大好きになる必要なんてない - ゆらのふなびと

 

 

 

そして、今までのことって、クンフー論全般にも言えることだと思うんです。つまり、クンフー論は「目の前の”好き”に集中しよう」と謳ってますけど、感受性が低い人にはそもそもこれができない。クンフーという生き方に「憧れて」、その高みに届かないが故に挫折してしまう。

 

これはあくまで自分の観測範囲の話ですが、クンフー論を考えてらっしゃる方ってそもそも感受性が高い人が多いように感じます。その人たちにとってはたぶんクンフー論はとても有用な議論です。自分の「好き」の大きさを活かして、より自分を幸福にすることができる。

 

でも、それを他の人にも広げようとすると――感受性の違い故に隔絶が起こってしまう。「好き・楽しい」と何か他のものを倒錯したり、憧れゆえの苦しみに苛まれる(あるいは最初っから諦める人もいるかもしれません)。この「隔絶」というのは、↓でべるんさんが仰っている「温度差」を、「逆から見たもの」(後に詳述)でもあると思います。

 

つまり何が言いたいかというと、クンフーを積み続けていくと「周りとの温度差」がハッキリしちゃいます。「あの人なんであそこまで本気なの?」と揶揄がまいの視線に晒されることだってたくさん出てくるでしょう。

――1)

 

べるんさんの仰ってる「温度差」っていうのは、自分がクンフーを積み続けて高みに上ったら、他者からの視線に苛まれることになるっていうことですよね。僕はこの「温度差」というのが、下からの障壁にもなると思うんです。私もクンフーで楽しく生きたいけど、上の人たちがすごすぎて、私には無理…という感じで。

 

 

ある意味クンフー論っていうのは、「みんなの理論」ではなく、「個人の理論」なのかもしれないですね。みんなでやろうと思ったら、上の人が周囲の平均に合わせなきゃいけないわけで、それじゃあ上の人たちは関わるだけ損で。

 

だからクンフー論をやろうと思ったら、ある程度「尺度を自分の中に持つ」というか…上の人間にしろ下の人間にしろ、「他人に惑わされない」ことは必要だと感じます。

 

具体的に言うと、

1.温度差の上にいる人間は、他者からの「なんだアイツ」的な視線に対する鈍感さを持つこと

2.温度差の下にいる人間は、上の人間との比較ではなく「過去の自分」との比較で成長を実感すること

が重要かなあと感じました。

 

 

 

たぶん自分というサンプルを一般化しすぎている節もあると思うんですけど、「好き」が弱い人の意見として、何かの参考になれば幸いです。

 

もちろん「感受性の高い人」が「感受性の低い人」のことも考えなきゃいけないなんてことはないので、考えたい方がいれば、ですけどね!(これは卑屈でもなんでもなくそう思います。「僕たち弱者のこともちゃんと考えろ」なんて言う方がよっぽど卑屈です)

 

*1:ここ適切な言葉が浮かばないんですが、「フレームワーク」とか言うと近い気がします。近似解?