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ゆらのふなびと

競プロ, Python, C++

誰かの「大好き」なものを、自分も大好きになる必要なんてない

 

 最近、人によって「好き」の上限って異なるのだなあということを感じる。例えば同じ「アニメが好き」にしても、週末暇ができた時にTSUTAYAで借りて見る程度の人と、毎日リアルタイムで見なければ気が済まない人がいる。フィギュアやポスターなどのグッズの情報を欠かさず収集している人もいれば、物には興味がないという人もいる。あるいは同じ作品を見たとしても、登場人物がここでなぜこう言ったのか、なぜこの行動を取ったのかなどが分かるまで考えなければ見たことにはならないという人もいるし、そんな難しいこと考えなくてもいいじゃんという人もいる。

 

 どちらの方が好きの「度合い」が高いかと言えば、毎日見たり、深く考える人だろう。でも、それはあくまでスタンツの違いであって、どちらの方が「善い」かという話ではない。娯楽なんて、個々人が楽しめるように、自分に合ったやり方で享受すればいいじゃないか。自分が深く考えることを楽しく感じるからと言って「アニメをちゃんと考えないやつは脳なしの消費者だ」とか、あるいは自分が深く考えないタイプだからと言って「アニメの考察とかしてるやつ気持ち悪い」とか言うのは、価値観の押し付け合いでしかない。

 

 人はどうして自分と異質なものを受け入れられないんだろうね。正反対の事が両方正解なことだってあるのにね。

 

 自分のやり方を「善」だと信じて、周囲の人に強制するーーそれはもはや親切のかけらもない、ただの暴力だ。

 

 

 

 そしてもう一つ思うのが、自分の好きの度合いが人に敵わないからといって、悲観することはないということ。

 

 最初に言ったように、人によって好きの「上限」は違う。これは「人が持っている、”好き”という感情の絶対量」という意味でもある。いわば感受性。「好き」=「その話題になったら何時間でも語れる状態」だという人もいれば、えっ、別にそこまではいかないけど…という人もいる。

 

 では、前者が後者より優れているということになるのだろうか? もしそうだったら、後者の人は一体どうすればいい? 何をも「大好き」になれない人は、何を「好き」になることも許されないのか? そんな悲しい話はあるまい。

 

 結局、自分がより楽しめればいいと思うんですよ。他者との比較じゃなくて、自分の内部での比較。「こうするのが正解」とか「もっと好きにならなきゃ」みたいな固定観念に囚われていたら、いつまでたっても自分にとっての幸せは得られない。自分が、より楽しいと思えるようになったら、それでいい。そしてそのやり方は本当に人によって千差万別だろう。

 

 だから、「どう楽しむべきか」なんてのは押し付け合うもんじゃないし、「こうしなければ」と思うものでもない。高めたいのなら、自分の内部の比較で、より合うやり方を探していく。それが、「楽しい」を最大化するための方法かなーと思いました。