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ゆらのふなびと

競プロ, Python, C++

「別にすごいことしてない」――そう思えるところに身を投じるのが最適解なんじゃないか?

 

 塾で働いていると、同じ”講師”という立場でも、それぞれ関心を持つところが違うことに気づく。例えば、大学で学生団体に入っていた私は「組織」や「システム」といった点に目が向く。それに対し、教員志望の同僚たちは「生徒」を大事にし、授業があるわけでもないのに自分から生徒に話しかけ、いろいろ教えてあげたりしている。私はむしろ「給料出てもいないのに自分から働くなんて変なの」とか思ってしまったりする。

 

 どちらが「いい先生」かと言われれば、生徒を大事にしている人の方がイメージに合うだろう。生徒に興味がないなんて、私は「いい先生」ではないのかもしれない。でも、どうしたら日々の活動をより少ない負担で回すことができるか、活動の最低水準を保つにはどんなシステムが必要かといった点を考え、塾長に日々提案している。その意味で、私は「いいメンバー」ではあるのではないか。

 

 ある同僚Mは、仕事に対してそんなに熱心ではなく、常にある程度の距離を保っている。しかし彼はコミュニケーションが非常に得意で、エンターテイナー気質を持っている。生徒や同僚を愉しませることに長けている。彼は「いい先生」ではないが「いいメンバー」だと言える。チーム内部の交流促進・結びつきの強化に一役買っているのだから。

 

 私にとっての「システム」、教員志望の人にとっての「生徒」、同僚Mにとっての「交流」――それは、各人にとっての「自然と目を向けられるところ」だ。

 

 教員志望の同僚Oは、私に「生徒を見るのより、”システム”なんてところに意識を向けられる人の方がすごいと思う」と言った。もちろん彼女が言っているのは「生徒を見ること」と「システムを見ること」の優劣ではない。彼女にとって生徒を見ることは「自然」であり、彼女からすれば「別にすごいことはしていない」のだ。私は逆だ。システムを見ることが「自然」。だから私が彼女に対して言うなら「システムを見るのより、生徒を見れる方がすごいと思う」になる。

 

 もちろん、講師として「いい先生」の資質を一定水準満たすことは、全てのメンバーに求められるだろう。しかし、その一定水準さえ満たされていれば、あとはどこを伸ばしてもいいんじゃないか。みんながみんな「いい先生」になることをストイックに求めるんじゃなくて、自分が「自然に」目を向けられるところに、身を投じていったらいいんじゃないか。

 

 「別にすごいことしてない」――この言葉の持つエネルギーはとても大きいのではないかと感じている。だって、「自分にとっての当たり前」をすることで、「人からすればすごいこと」ができるのだから。人より少ないコストで、人より高いパフォーマンスを実現できるのだから。

 

 そしてメンバーの一人一人が「自然に目を向けられるところ」にちょっとだけでも手を出せば――それはチームにとって大きな力となり、環境を改善し、より生き生きとした場になる。そうすれば、チームは自分がより活動したいと思える場になる。巡り巡って、自分に返ってくる。これが組織とメンバーにとっての最適解なんじゃないだろうか。

 

 

あとがき

 結局言っていることは「適材適所」ということにすぎない。しかも例が個人的すぎて、イマイチ伝わらない(し、こういう自分の背景に依存しすぎた例を出すのは自分自身好きではない)。それでもこの記事を書いたのには、理由がある。

 

あなたにとっては物足りなかったかもしれません。陳腐だったかもしれません。けれども私にはあれが生きた答えでした。私は冷ややかな頭で新しいことを口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物に強く働きかけることができるからです。

 

――『こころ』 下・八 先生

 

 私はこの記事のタイトルの内容に思い当ったとき「これか!」と思った。そのときめき(?)を忘れたくなかった。

 たとえ陳腐な内容でも、その結論に自分の頭で辿り着いたのならば、自分の言葉で表現したならば――それは自分にとってはもう、キラキラ輝く宝石なのだ。自分にとっては価値を持つものなのだ。

 

 

 そんな正当化をもってこの記事の結びとします。