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ゆらのふなびと

競プロ, Python, C++

過去と向き合い、前に進むこと。『マルドゥック・スクランブル』 感想 2

『マルドゥック・スクランブル』 『こころ』

過去と向き合い、前に進むということ。焦げ付きと向き合うことは、それに足を取られフラッシュバックにしてしまうことと表裏一体だ。

 

☆(2 p.185)

 泣きながら考えた。前進することについて。ウフコックもドクターも前を見ていた。前進し、漠然とした価値や目標に向かって、具体的な成果を上げようとしているのだ。

 だが、シェルやボイルドは違った。彼らはきっと、振り返ってしまったのだと思った。

 自分を振り返り、もうとっくに死んだはずの過去と、目と目を合わせてしまったのだ。

 過去は、自分の思い通りにすることのできる屍だった。

 ただしそれが、きちんと埋葬されている限りは。バロットはそんな風に思った。

 墓の下から、過去はつねにこちらを見つめている。隙があれば腐った手を伸ばし、それに足を取られた者を、どこへ行こうとしていたかさえわからなくさせてしまうのだ。

 じっとこちらの背をうかがう過去の目のプレッシャーに耐えられなくなったとき、シェルもボイルドも振り返り、そして闇に飲まれた。

 それは、バロット自身がいつでも飲まれそうになっているのと同じ闇だ。

 バロットは、自分に何ができるのかを考えた。

 この銀色の卵から外に出たとき、自分に何ができるのかを。

 

 バロットは一度殺される前、殻に閉じこもって生きてきた。自分の感覚を遠くに飛ばし、いいようにされるのを許し、ただ過ぎ去るのを待つ――それが彼女の処世術だった。しかし、ウフコックとドクターに救われてから、自分の事件と向き合い始めた。シェルはなぜ自分を保護し、自分を殺したのか。なぜ自分が生き残らなければならないのか。その答えを探した。

 自分の事件とは殺されたことだけではなかった。父にレイプされ、家族が崩壊した過去。自分のせいだと思っていた。「お前は悪い子だ」という声が頭を離れなかった。しかし裁判での質疑応答を通し彼女は過去に対して吹っ切れた。自分を犠牲にして社会で上り詰めようとしたシェルの野心を卑しいとしか思えなかったし、自分が悪いのではないと思えるようになっていた。

 

☆(3 p.180)

 暗闇の中で本当に怖いことは――とバロットは思った。それは、怖さのあまり一歩も動けなくなることだ。指一本動かせなくなって、好きなように操作されることだ。

 そうされないための意志を持ちたかった。これまではずっと感じることを捨ててきたのだと思った。ウフコックと出会うまで、ずっと。そして今、薄い殻を通してだが、貪欲に感じている自分がいた。そのとき、ふいに鋭い臭いが鼻を突いた。幻の臭気が。死神が身にまとう香水のようにそれが自分に抱きつき、全身を覆っていた。バロットはいつしか自分が車の中に閉じ込められている場面を思い出していた。ガスの臭いが充満する場所で。それでも、自分には、閉じこもることしか生き残るすべがなかった。

 あのとき自分は、このまま死ぬのだと思った。みじめで、悲しいまま。

 そして――ぎりぎりで間に合ったのだ。

 

 「このまま死にたくない」それが彼女を突き動かす大きな原動力だった。自分が何なのかもわからないまま。なぜ自分なのかもわからないまま。バロットが自分自身の事件を解決したその先に、彼女が上るべき階段はあった。

 

 しかしバロットの意志は、カンパニーとボイルドの襲撃を前に違った方向に現れることになる。「なぜ自分なのか」。その問いの裏返しは「復讐」だった。自分を傷付けようとした全ての人間に、償わせてやる。ウフコックという”力”を得た彼女が向かったのは、過去に捕らわれた非生産的な”暴走”だった。

 

☆(1 p.283)

 爆音が響くたびに、このすべては自分が起こしているのだという快感が込み上げてきた。それは圧倒的な支配力だった。物事を思い通りに動かし、感情を持つ人間さえも良いように操作する力。これか、と思った。男たちはこんな感じをいつも味わっていたのか。

 この胸の焼けるような甘い思いを、どうして自分も味わってはいけないのか。

 なぜ自分なのか――という嘆きに満ちた問いの、裏返った答えこそ、これだったのだ。

 かつて虐げられていた自分が、今、最高の快楽を手にしているのだ。

 

 

――犯してやる!(ファック・ユー!)

 

  ――犯してやる!

 

    ――犯してやる!!!

 

 

☆(1 p.299)

 引き金がびくとも動かなくなり、手にした銃から、ウフコックのうめき声が聞こえた。

「乖離したか……」

 ボイルドの冷ややかな声に、バロットが、凝然と身をすくませた。

「道具を濫用する者への、自己防衛だ……ウフコックは、お前を拒否した

 その言葉は、稲妻のようにバロットを打った。これまでの人生で聞いてきた数々の汚い罵りの中でも、最も酷かった。最も恐ろしく、屈辱的で、そして救いようがなかった。

 ボイルドが、静かにこちらに銃を向けた。機械的な殺意のこもった銃口の闇の向こうから、これはお前のせいだという声が聞こえてきた。悪い子だ。お前は悪い子だ。腐った場所へ再び放り出される絶望がバロットを襲った。天国への階段<マルドゥック>を必死に上ろうとして、自分から足を踏み外した。それはそういう絶望だった。

 

☆(1 p.302)

 今こそバロットはウフコックの気持ちを理解していた。それは恐ろしいことだった。ノーと言えばそれはしないという約束が、最もひどい形で破られたのだ。

 まさか自分がそれをするとは思わなかった。なぜ自分が――と思いたかった。いつでも約束を破られてきたのは自分のほうだった。自分はいつでも約束を破られ、なぜそうなのか、自分のどこが悪かったのかと嫌になるほど悩んできた。

 想像さえしていなかったのだ。自分から約束を破り、相手を傷つけるなど。

 まして自分の信頼する相手をこうも傷つけるなど、あるはずがなかった。

 

 自分の過去と向き合うこと。それは決して過去を”帳消し”にしようとすることではない。必要なのは自分の焦げ付きを適切に知り、自分の行動が与える影響を理解し、人を犠牲にしてしまいうる刀を正しい方向に向けることだった。

 力は多くのことを見えなくさせてしまう。前に向かって歩いていたはずが過去に拘泥するだけになったり、大切な人の気持ちを踏みにじってしまったり。だからこそ、力を得たとき、できなかったことができるようになったときには、「知ること」と「成長すること」が必要だった。

 

☆(3 p.99)

 だがその焦げ付きの表出には条件があった。知るという条件が。ウフコックもドクターも、容易にことの善悪を語らず、むしろ、どれだけ多くのことが目に映っているかを問いただすタイプだ。その焦げ付きから何が学べるかを。

 

 自分が得た力の前に一度は進むべき方向を見失ってしまったバロットだが、バロットには支えてくれるドクターとウフコックがいた。彼らはバロットが「自分自身で過去と向き合えるように」、そして「未来へと自分で歩いてゆけるように」導いてくれたし、彼女自身もそれを望んでいた。

 

☆(p.299 バロット)

≪もし誰かに、ここで私が、ゲームを諦めたら、みんな幸せになるって言われたとしても、私には、それは許せないから≫

 

 この言葉に、バロットの決意のすべてが集約されていると思う。

 バロットは決して自己犠牲を最適解にしていない。自分が消えることで、自分が我慢することで、自分がいいようにされることでことがうまく進むならそれでいい――そんな風に諦めてはいない。バロットは自分の命と向き合いたいんだ。自分が生きること。自分じゃなきゃ、ダメなんだ。

 

☆(3 p.9)
 生き残る――配られるカードに対して、バロットが思ったことは、それだった。
 二度と、何の抵抗もできぬまま殺されるつもりはない。逆に相手の心臓をこの手でつかみ取るためにも、何としてもゲームを生き残らなければならないのだ。シェルという男が仕掛けたゲームを、この事件をバロットのゲームにするために

 

 シェルの記憶を手に入れ2度目の裁判に向かうバロットたちだが、またもバロットを感情の波が襲った。悲しみに任せて、全てを壊してしまいたい。それはシェルやバロットが足を取られて沈んでいった過去の闇と同じだ。自分の進むべき未来さえ見えなくさせる、フラッシュバック。

 

☆(p.303 シェルに殺された令嬢を発見して)
 ――お願い、皆殺しにさせて。私なんか死んでも良いから。死んでも良いから。
「落ち着け。巻き込まれるな。落ち着いて呼吸を整えるんだ」
 バロットは銃を握りしめ、体を震わせて泣いた。声もなく、息を荒らげて。
 ありとあらゆるおぞましい因縁が、この部屋で結実していた。怒りではなく、悲しみが殺意になるのを、バロットはほとんど初めて体験した。シェルを殺すべきだった。オクトーバー社の人間全員を殺すべきだった。この事件にかかわる、ボイルドやドクターでさえ殺したかった。そして最後に、自分を撃ち抜きたかった。

 

 しかしウフコックは、再びそんなバロットを支えてくれた。バロットにとって、学ぶべきことはまだたくさんある。焦げ付きと適切に向き合うために知らなければならない多くのことが。彼はそれを、自分の身を以て彼女に教えようとした。

 

☆(3 p.304)
「いい匂いだ/君の魂の匂いだ。俺が信じるべきものがあるとすれば、これだという確信をくれる。俺に君を信じさせて欲しい。シェルもボイルドも何も信じられず、鏡の向こう側にいる。クリーンウィルがそこにいたように。そこでは何の迷いも悩みもないかもしれないが、同時に何の希望もない場所だ。俺はそこにはいきたくない
 
「俺は俺を、君に託す」
 
/このまますべてをバロット委ねる気でいるのだ。バロットがその気になれば、一瞬でウフコックのすべてを操作(スナーク)しつくせるだろう。どんな濫用だって可能だろう。だがそれこそ、最後の制止だった。ウフコックは身を挺してバロットを止めてくれていた。

 

 ウフコックは、一度自分を濫用した相手に、自分のすべてを委ねたのだ。並大抵のことじゃない。自分をボロボロにした相手だ。ボイルドに良いようにされたトラウマもあるというのに。それでもバロットにすべて任せられたのは、バロットが成長するとわかっていたからだろう。裁判で、初めての戦いで、ルーレットで、ブラックジャックで……すぐそばで、いつだって、バロットが力をつかいこなし自分の足で歩んでゆくようになる過程を見てきたんだ。だからこそ、一緒に戦ってきた二人だからこそ、任せられたんだと思う。

 

  最後のボイルドとの戦い。バロットは「殺さずに止める」ことを選ぶ。ウフコックの友達だった人だから。本当は無茶だ。ボイルド程の相手には高すぎるハードルだ。それでもバロットは挑んだし、ウフコックもその気持ちを支えた。

 ボイルドを最後に撃った銃には引き金がなかった。それは、バロットに殺させたくないというウフコックの意志だった。道具としての自分自身を越え、「自分の意志で」ボイルドを撃った。ウフコックもまた、自らの過去と向き合い、前へ進もうとしたその結果だった。

 

 

☆(3 p.367 バロット)

 ――一緒に泣きましょう、ウフコック。悲しい気持ちが少しでも消えるように。