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ゆらのふなびと

競プロ, Python, C++

思考実験としての「死」

考えたこと

「明日死ぬとしたら、君は何がしたい?」

 

 「物事を極端に考えることで、はっきりしてくることがある。」これは「思考実験」という言葉で表現できると思う。「摩擦のない面」なんていうものはないが、それを仮定して本質を理解する。実際には自分の立場について人は様々な情報を持っているが、「無知のヴェール」を仮定する。思考実験には、「他のことをいったん脇に置いておくことで、自分が今見たいものをクリアにさせる」効果があるんじゃないだろうか。

 冒頭の問いも、そういう意味で「思考実験」だと言える。「明日死ぬ」んだと仮定すれば、やっぱり自分のやりたいことをしたい。現実には、世間体とか、躊躇とか、先延ばしとかいろいろあるけど、それをすべてなしにして、「本質」に目が行くようにしてくれる。

 ただ冒頭の問いだと、「別にやりたいことがない」人には答えるのがキツい。そういう場合は「明日死ぬとしたら、今日やることは本当にやりたいことか?」という問いの方が合っているかもしれない。そう問い続けることで、「自分は本当は何がしたいのか」「自分は何が好きなのか」が見えてくるだろう。もちろん、一点に留まらず、「自分が好き・やりたいと思えることを探す」努力は怠ってはいけない。

 あるいは、「問い」という形式の制限を設けないなら、「やりたいことがあるなら、死ぬまでにやりたいじゃん」ということになる。いや、今はやりたいこととかないかもしれないけど、それでもなんとなく「こうなりたい」とか「こうしたい」とかあるはずじゃん。自分がまだ自分のそれに気づいていないだけで。だからこそ、さっき言った「明日死ぬとしたら、今日やることは本当にやりたいことか?」という問いで自分の望みをクリアにしていくことは有用だと感じる。

(なぜか自分には「いつか死ぬんだから有意義に過ごさなきゃ!」という論理ではしっくりこない。ここはおいおい探っていきたい)

 

 昨日から「死の自覚」と「生きることに向き合うこと」の関連がずっとモヤモヤしていたのだけれど、「思考実験」という言葉がすごくしっくりきた。思考実験という言葉自体は自分で想起したものだが、これに気づくきっかけを与えてくれたのは塾長。やっぱ人と話してみるってすごくいいな、なんて思ったり。突然「死を自覚するが故に有意義に過ごさなきゃと思うことがありますか?」とか聞いて答えてくれるんだもの。ありがてえ…(そしてこういうことを「聞いてみる勇気」というのも、「気付く喜び」を得るためには大事だなと)